昭和40年05月02日 朝の御理解
「信心をするものは、木の切り株に腰をおろしても、立つ時には礼を言う心もちになれよ」。これは信心をさせて頂く者、もっとこれはもう、おかげを頂くためにはどうしてもここのところを徹底分からせて頂かなければいけないと思うね。信心をさせて頂く者はという事なのですけれども、お互いがやっぱりおかげを頂きたいわけで御座いますですから、おかげを受けなければいけません。
為にはどうしてもここん所のいわゆる「木の切り株に腰をおろしても立つ時には礼をいうような心持」。その心持に私はおかげが受けられると思うのです。そこで皆さんまあいうなら、汽車や電車に乗らせて頂いて席を頂いてもですたい、それを当たり前と思わずに、当たり前というところには、喜びも感謝の念も沸いてまいりません。おかげで席が頂けたと。どうもすいませんと、有難う御座いますと。
そういようなあり方、休ませて頂きましてもそうでしょうもん。ね。例えばそのいわゆる掛け布団にでも、枕にでもお礼を言う様な心持。ここん所に皆さんが徹底して出来ておる出来ていないは別として、そうあらなければならないという事は皆さんも分かっておいでられる。ですからここん所に私は当たりもう、当たり前というような、当たり前のようなことの中にです、本当にあの有難う御座います。
有難うございますを繰り返させて頂けるようなおかげを一つ頂いていく、そういう信心が、目細い信心と言うのじゃないだろうかと、こう思うのですけれども。今日私が言うのは次の例をもってお話いたしますから、そう言う様な場合にでも、その事に対してお礼を申し上げるような、いわゆる心持にならせて頂かねばいけないと思うのです。というのは昨日御月並祭でございましたが、ここに秋永先生が、お届けされます。
昨日おととい、今度の新たな図面の作成の為に、見事に出来ていたんです。出来ていたんですけれども、その事を神様にお届けをさせて頂きましたら、あの自分達の方があまりにも素晴らしくてですね、いわゆる実用向きではないところがある。素晴らしいことは素晴らしいんだけれども、もう実用向きでないと。だからもう少しここんところ、実用向きな、実用向きに実際につこうて、便利がいいと、というような意味合いでもう一つ検討しておかげを頂くようにと言うことを私は申しておりましたから。
その事を昨日おとといは、高橋さん、文男さん、秋永先生、それから( ? )先生で、検討いたしましてね、それで、またその大きく出来た図面をもってから、昨日の晩ここにやってまいりした。昨日おとといですたいね。そして、ここでまた、朝の2時ぐらいまで、検討いたしました。設計をなさっておられる古屋さんのお宅がです、もう今日私夜どうしでしてから、ということだったそうですから、もうここ三時ぐらい、ここたってまいりましてからそれからまたあちらに行ったそうです。
大変ですねそれでも考えてみますと。やっぱり一つのことがなされる為には、そういうような、一生懸命の人達がなからなければ、物事は運ばないと思いますね。神様のおかげで、神様のおかげでと申しますけれども、やはり、一つのこれは、今度は土地なら土地の問題だってそうでしょうが。昨日、お月並祭の後に福嶋さんが残っておいででございましたが、福島さんがこういうことを言っておられるですね。
今度のお土地のことで、おかげでまあとどこおりなく、あの6反あまりの土地が手に入らせて頂いて、それぞれに、みんなにも喜んでもらえて、う人家の方は無事通過させてもらい、お金も殆ど換金全部いれてしまった、と言う様なおかげを頂いてまいりました中にです、もう本当にやっぱ、随分、様々なあー曲折した問題があった。けれども、今度はこの事で分からせて頂きましたことは、こちらが一生懸命になれば神様がおかげを下さるという事だという事。
これで、私本当の意味で私自身が自信がつきましたといっておられましたね。神様のおかげというのは棚からぼた餅がおちてくるようなものではないということ。しかも例えばいうならば、2反の土地から3反の土地、3反の土地から現在の5反の土地というようにです、しかもこここそ、神定めのお土地であっただろうと思われるような、お繰り合わせの中にですたい、おかげを頂いてきたけれども、それならこういうような人間的な努力も十分出来たということ。
しかし人間的な努力もですね、一生懸命にならせて頂けば、おかげが頂けるのだという、いわば確信がです、この事をもって、この事を通して、分からせて頂いたというておられます。ね、ですから、ただ、あの神様のことだから、万事にスムーズに、ほったらかしておってスムーズに行くはずがありません。と言うことをですね、お互いが知らなければいけません。その、いうならば事で御座いましたが、その、秋永先生の場合もですもう朝の2時から、かえってあちらへ参られたらしんです。
古屋さんとしても、もう不眠不休とはこの事だろうと、もう仕事にもかかられましたら、前々問題ないそうです。だから仕事しながらもっと30分一時間しながら、この頃古屋の奥さんがいつ見ても夜中でも一生懸命仕事をしておられるのをみてから、後ろ姿を拝まずにはおられませんというておられます。ね、ですからそう言う様な、一生懸命のものがです、やはりあって初めて一つのことが成就するのであるという事。
そう言う様な中にですたい、もうその秋永先生が古屋さんところにまいりますと、図面がこうこういう風に出来たと見せる、そうすると皆さんご承知のようなああいう、単刀直入の人ですから「あ、これは古屋さんだめですばい」ち言う。これはいけまっせんばいち言う。ここはこうしてもらわにゃと言った様にです、もうそれこそいうなら一晩なら一晩中、工夫して書き上げたそれをです、また書き直さなければならん。
「はあ、それは本当にいうて貰ってやっぱよかった。やっぱセンスある皆さんの知恵を借りなければ出来ん」という風にしてから、もう5回となし6回となしに書き直し書き直しをして、こういうふうに出来て来た。もう今度は非の打ち所はないとまで自他共に思うておったんですけれども、神様にその事をお届けさせて頂いたら、素晴らしい、立派だと。けれどもこれは実用のもんではないと。
ただ、もうちょっと実用向きで実用向きな、図面に書き直さなければならんと言った様な事を指摘してその、いろいろ申しましたらしんですね。ですから、もうかていっぽも疲れきってはおる、一生懸命の中にです、それを言われたから、前々からもう気持ちも悪うなったでしょうけれども、もう高橋さんと文男さんにいわれたそうです。「これから、秋永先生に来てもらっちゃ困る」と言われたそうです。
折角専門家のいわば技術屋さんが何人かこのたびのことでは百日くらいかかるのですか、二ヶ月くらいかかるのですか、かからなければならん所を、それを15日か20日で作成をしようというのですから、幾分ものやはり設計士を雇う程しの事なんだそうですね。ですから、秋永先生にいうと必ずそれはいかん、折角書きよる、ここはいかんといわれるから、秋永先生に来てもらちゃこまると、どうぞこの事でもめよるならば、もう文男先生と高橋さんと二人で来て下さいという事だったらしいです。
そしてその事をです、秋永先生に言わなければ秋永先生も(?)行くもんですから、それで高橋さんその事をまあ、ある意味ですね、ほめのかしたらしいのです。文男さんがこういうておられると。それで昨日もこの事をお届けさせて頂きましたけれども、あのいわば聞いた事はですね、もうやっぱりショックだったわけなんです。ところが、もうその次の瞬間にはですね。
「ほうにそうじゃろう一生懸命にもうこれだけ、しかも専門のかたがなさっておられるのに素人の私達がですたい、ああだ、こうだということは、確かにそうだろうと、しかも、(?)がです、自分が言う事がそのこんなふうだからそれはやっぱり文男さんがい言われたことが本当だろう」とこう思うたと。早速自分の手帳にこれから、言葉一つの上にでも慎みをもって、最近の秋永先生の( ? )もう実に慎重です。
失言どんあっちゃならんと。こういう大事な事をいわば長としてです、おかげを頂いていく為にはと、勿論そのための修行しておられるに違いない、日頃の秋永先生が段々感じなるくらいにです、慎重である事は皆さんもお気付きの点と思うのですけれども、それでもです。やっぱり文男さんにそげんいわれてからから、一事チョットショックだったけれども、それでもなら私と古屋さんがですそう言う様な感情で会わなかったら。
肝心要の設計の方が思うように出来ないし、またこんな事も改まらないかん、これはなんというても私がお詫びをしてからでも、あんたんところに毎日こらせて貰うという事をもって秋永先生はいったというわけなんです。偉いですね。例えば今度の事でも、ちょっとした事にですね、あったからというて、ならその腹かいてからその、お参りもしてこないという人があるんですよ。
例えば、役不足だったと言った様な事でもです、もう私はいらんもんじゃけんと言う風で、人がありますですよ。そげな事では今度の事は成就致しませんです。役不足所じゃないその中にです、銘々がいわば実行委員の一人一人であるという事です。下に控えてあるあんなかと同じ事です。ね、あの人が一生懸命しよっとじゃけん、こっちだんちごたる風なですたい、そう言う様な事では信心ではないです。ね、
自分の都合のよいなら( ? )ですたい、実祭御用も出来ない技術も持たない者が上に書いてもらってどうなります、それこそ私は言わば、いうだけではできませんものごとは問題は真心を持って、今度のことばっかりはやらせて頂くことでございますから。ね。そういうような心の小さい感情、まあいうようなことでは、日頃信心しておるもんじゃないです。
その点、秋永先生、私、本当に敬服しました。ね、「私とあんたがです毎日会わないと言うこと出来んち。いくら来てくれるなちいうても。けど私はあんたの気のなさる所を改めさせて頂くから、どうぞ、あんたのところにこさせて下さいち。あれこれいうておるが私がこんだったら今度のことは成就いたしません、というて早速拝みにいったという事です。そして、分からせて頂いておる事。
本当に古屋さんにそういうて頂いてからです、ね、本当に自分のガンに気がついておりながら、愈々取り除かせて頂こうと言う様な、元気が出たと言う様な、その事に対してお礼を申しておられます。私は今日皆さんに分かって頂きたいというのはね、木の切り株に腰をおろしてもと、(そげなんこついうたかと、誰がいうたかと、設計士はおまえだけではなかぞ)と言う様なです思い方ではなくて、そう言う様な頂き方。
いわゆるそこにですお礼を申しあげる心です。本当にこれから先まだ大変な問題があるのにです、時に皆でそう言う様な事で私にこりお積ませる様な事であっては今度の事は成就しないと。ここを改まらせて頂きたいとおかげを頂いたと、ここを気ずかせて頂いたと、本当に分からせて頂いたと、よくぞ言うて下さったというそれなんです。その後帰らせて頂いたら早速、ふみさんが秋永先生に言われることです。
「今日は銀行からこういう事があった」と、というてそれを又、後でふみさん後でお届けをされるんです。いわゆる手形のことがあった。銀行から電話がかかって来た。お金が足りないという。確かに払い込んで折るけど足りないという。3日前にもいくら足りないいくら足りないというて来た。そんな事はないがというて、自分ところの帳面をもって銀行にいった。銀行でもこういう間違いをするのだからというて、もうたまがっておったのですけれども、銀行の間違いであった。
ところがその銀行の係長の人も、言い分がですたい「あんたの所はいつもこげな風ですから」ちいうてから言うたち。さあふみさんあいう性格の人ですから、そのああどうもすみません。なるほどいつもその手形がぎりぎりで迷惑をかけておる事も事実なのだから、ね、本当にどうもすいませんというてから、まあしかし今度の場合はことをいうてから、銀行の事も間違いでありましたから、そのまあ帰って来たんです。
帰ってきてから考えれば考える程腹が立つちいうわけです、こりやその向こうの支店長代理がここらしんですけれども、その係長の人の為にです、もうあの人の為にでも、ああいう事をいうたという事に対してですたい、許せないと。これはどうでも一つ言うて聞かせとかなければ今後の事がある。というてまあフミさん、秋永先生がその帰ってこられたらそのこと言われるそうです。
「もうそれはそうだと。けど今日は月並祭じゃけん、どうせ帰りにいくけんで、椛目の親先生にお届けをさせて頂いてからのことにしようじゃないか」と。と言う風にまあ昨日は銀行にいかずにこっちのほうにみえたわけなんです。ね、そしてご理解を頂いておるうちにです、それは銀行関係だけの事ではないと。お互いが説教がましゅうです、言うて聞かせるとか、これは自分のためじゃない、その人の為にでも言うて置かなきゃといったような例はいくらでもあるという事。
けれどもそういう時にです「くちなし」を頂いたと。お祭りに。ね。くちなしという事はくちなしという意味ですね。口なしという事は無口という事。言うなという事、いわずになれということ。初めて言わずに成るという事のありがたさが分かったと言う事。いわば、その銀行の係長がです、そう言うえげつない方、大体言うたらこちらがそう言う手からですね、どうもすみません、いつもすみませんとこちらが言うたら、今度は私の方も手落ちでしたと向こうも一言お礼を言うてくれるものだと思うておったと。
ところが反対にその、あんたのところはいつも間違とると言うような事をいいいよっちゃる。そこでその、いうて聞かせておかなきゃとおもうておったそれ賀です、言わずに済む事のおかげがこういう有りがたいものであるという事を昨日お祭り中に感じられたと。してみると、銀行のことだけではないという事ですたい。これから先自分がです子供にでも親にでも、店員さんにでも、ね、
これは言うて聞かせとかなというような事で、果たして相手が聞いてくれ、相手のためになるといたしましても、それはどうなるやらわからない、かえってこりおつませる、けんかになるかもしれん。ね、言わずに成らせていただくという事が分からせて頂いたなら、その銀行や員さんのおかげという事が分かった。はあ、これからは私本気でここに取り組ませてもらおうと、こう思うたと、私は今日はそこのところを皆さんに分かってもらいたいのです。ね、
ただ、( ? )その事によってです、これからの( ? )が大事だという事。それから、そこから、私の性格が変わるくらいにです、改まるという事が出来るという事。その事に対してです、お礼が申し上げられるという事。木の切り株とはいらんもの、いわゆる、むしろ邪魔になるもの。それでも、やはり腰をかけさせて頂いたならば、立つ時には礼をいうような心持ちになれよとこう仰るのだから。
秋永先生、ふみさんの場合もです、古屋さん、の場合銀行員の場合です、その為に腹が立ったち、その為にショックを感じたち。けれども、それのおかげでです、これからの大きなことがなされていくためにです、人にこりを積せんで済む様なおかげが頂けるというような事になれば有難い。それが例えば御造営の記念に自分のものになるというような事になったら有難いでしょう。ね、
だから今日の事に限った事ではないのですけれども、皆さん例えば、もう当たり前というような事の中にお礼を申しあげねばならない事は十分に分かっておいでのことでありましょう。自動車に乗らせて頂いても、席を頂いても、休ませて頂くときにぬくぬくと布団を着せて頂く時も、当たり前と思わずにそこに御礼をもうさせてもらうというのは当りまえ。むしろ、いうておらなければならないはずなのです。
信心をさせて頂く者は。けれども、それとは反対にです、腹の立つようなこと損になるような事の中にでも、その事によってこちらが改まらせて頂く事になったら、その事に対して御礼を申し上げることが出来る。そのことによっておかげを受けることが出来る。腹が立つような事にお礼が言えた時にです自分が改まる事が出来る。だからその事に対してお礼を申しあげるような心こそ、私は木の切り株に腰を下ろして立つ時には礼をいうような心持というのじゃなかろうかとこう思うのです。
そういうところを一つ今日は、追求していって今まで例えば、お礼を言い忘れておったところもあろう、いうなら、かえって反感をもってのこともあろうだから反感を持つことによって分からせてもろうた事に対してです、御礼を申さねばならないという事。そういう風に信心がだんだん、徹底して、徹していかなければいけないと思うですよね。
どうぞ。